長いこと待たれた復帰作については、どんなアーティストの作品であれフライング気味で、おいおいそんなに即断していいのか?と感じるほど半煮えの評価が下されることが多いように思う。グレイス・ジョーンズの約20年ぶりの新作になる本作「Hurricane」ほど、その傾向がはっきり出た作品もないかもしれない。この作品に寄せられたレヴュー/評価は完全に陶酔しきった手放しの評価からハナにもかけない否定の論調まで様々だが、何もそんなに慌てて結論を下す必要はないんじゃないだろうか――20年近く待ったんだから、もうちょっと時間をかけて、この作品をじっくり聴き込んでも罰はあたらない。それにこの作品は仮面を脱いだリアルなグレイス・ジョーンズが初めて表に出てきたアルバムとも言えるし、だからこそ繰り返し聴くことで味わいを増す、包括的に聴くべき作品ではないだろうか。
彼女が表舞台に登場するのは本当に久しぶりのことだし、実際グレイス・ジョーンズは謎と神秘の塊みたいな人物であり、また表現の媒介物/解釈者でもある。しかし彼女のことを好きであれ嫌悪するのであれ、その存在が否定しがたいのは事実だと思う。彼女の絶頂期を刻んだアルバム、中でもグレイトな「Nightclubbing」は、NMEがまだシャープなメディアとして認知されていた頃に同紙のアルバム・オブ・ジ・イヤーに選ばれたこともあるくらいの作品で、優れたセンスでチョイスされたカヴァー曲そしてオリジナル・ソングから成り立っていた。それだけに元モデルである彼女を引き立てるのにはもってこいの内容だったわけで、彼女はそれらの楽曲を自分流に着こなしてみせ、その魅力を見せつけてくれていた。しかし過去に極めた名声はいつしかアーティストにとっては重圧になっていくものだし、また彼女自身、自らのアイコニックな神話性を増徴させその中に埋没することで存在感を失っていったとも言えるが――にしても、いったい2008年の今、誰がグレイス・ジョーンズの音楽を聴くんだろう?という疑問は尽きない。彼女の復活が現在人々の話題になるとしたら、その理由はどこにあるのだろうか。
そんな風に今回の復活を喜んでいる人間のひとりは、言うまでもなくこの僕だったりする。今年に入ってから彼女がイギリスで行なったライヴ(メルトダウン・フェスティヴァル、フェス出演他)はどれも絶賛で迎えられたし、それだけでも彼女の中にまだしっかりとヴァイタルなグルーヴが息づいているのは感じられる。たとえば僕自身の10代の頃の経験を思い返してみても、彼女の「I've Seen That Face Before (Libertango)」(「Nightclubbing」収録)の華麗なビートの闊歩が田舎のしょぼいディスコに流れ始めた途端、その場の光景は(皮肉でもなんでもなく)文字通りゴージャスな南仏コート・ダジュールへと一変したものだった。その時「気取りは忘れてとにかく踊ろう!」、そんな風に感じたし、斜に構えた皮肉な物の見方をいったん脇に置いて音楽のもたらす魔法を信じよう、だからなんだって可能なんだという気にもなった。イギリスの侘しい炭鉱町に暮らす少年だった僕にとって、通りを歩きながらウォークマンを通して聞こえてくる彼女の音楽は、自分だってジャマイカやマンハッタンのエッジと(少なくとも)カルチャーで繋がっているんだ、そう感じさせてくれるものだったと言える。
では、このアルバムにおけるリユニオン――彼女の名声を確立した80年代の古典的名作群のキーを握るスタッフ~核となるアンサンブル・キャストとグレイス・ジョーンズの再会は、27年経った現在も有効だろうか?それとも、今の時代は誰もがシニカルになり過ぎて、あのデカダンな魔法がポスト・モダンの世界に再び降臨するなんて信じられなくなってしまったのだろうか? というわけで、この作品は聴き手をおなじみアイランド時代の彼女の世界へ引き戻していく。スライ&ロビーの必殺リズム隊にコンパス・ポイント・スタジオでのレコーディング、キーボードには名手ウォーリー・バダルーそしてブライアン・イーノまで参加。1曲目のギターなんて、エイドリアン・ブリューにすら聞こえるくらいだ。それだけにこの作品は多くの意味で過去のグレイス・ジョーンズ作品とのギャップをまったく感じさせない作りになっていると言えるが、それでいてプロダクションそのものはマッシヴ・アタックの重さと光沢を思わせるものへとしっかりシフトしている(ゲストにトリッキーが参加しているのも頷ける)。そのマッシヴ・アタックがキュレートした今年6月の英メルトダウン・フェスティヴァル出演で、グレイス・ジョーンズのUKシーンにおけるカムバックの布石が打たれたわけだが――彼らがそもそもスライ&ロビーの作品から影響を受けているアーティストだという点は、今さら指摘するまでもない話だろう。
「Hurricane」が80年代作品と異なる点として、まずこのアルバムの収録曲の大半がオリジナルであること、そして彼女の内なる繊細さ、更には(エキセントリシティーならぬ)エコロジーへの興味が初めて顔を出したというのが挙げられる。とはいえ作品前半は「Nightclubbing」にほぼ匹敵するクラシックなグレイス・ジョーンズ節が登場する見事な出来。オープニング「This Is」はリフがディリンジャーのレゲエ名曲「Cocaine In My Brain」への目配せ/オマージュになっている洒落た曲だし、「Williams' Blood」はNYディスコのディーヴァとして君臨していた頃の彼女を00年代にアップデートしてみせる粋な曲で、かつクセになるパワフルなコーラス部によってロック・アンセムへと転化していくアルバム中もっとも優れた曲。「Well,Well,Well」は最盛期の彼女のアルバムからのアウト・テイクとすら思えるトラックだし、実際もしそれくらい熟成され寝かされた曲だとしても、僕は驚かない。
それに較べるとアルバムの後半部はやや難航気味な内容になっているが、聴くほどにその微妙な深みが徐々に姿を現してくる。たとえばアルバムのタイトル・トラック「Hurricane」は、ちょっと聴いた限りではマイケル・ジャクソンのあの最悪な曲「Earth Song」のビデオにすら通じる〝自然を超越した自分〟めいた大地母神的イメージが浮かんでくる。しかし実質パワー・バラッドであるこの曲も、聴き込むうちにその良さと真摯な思いとが伝わってくる。もうひとつの穏やかなロック・チューンである「Sunset, Sunrise」も、スライ&ロビーの肌理細かいリズム・セクションをバックにスイングしていくいい曲だ。アルバム最終曲「Devil In My Life」はやや大仰なイントロ(またか!という感じだが、ここで思い浮かぶのはマッシヴ・アタックのデイヴィッド・アーノルドとのコラボレーションだったりする)からスタートするものの、ビョークの「Play Dead」が持つ空間性と高尚さに通じるものと思えば、この壮大さも徐々に理解できるようになってくるだろう。
このアルバムが苦戦している箇所を敢えて挙げるとすれば、それは歌詞の面。たとえば寓話めいた歌詞をえんえんと引きずっていく「Corporate Cannibal」は、聴いているうちにこれは中学生レベルの詩作じゃないのか?と思えるくらい初歩的だったりもする。だが、この作品がおそらくグレイス・ジョーンズの80年代以来ベストとも言える内容であること、そして近年でももっとも優れたカムバック・アルバムであることを鑑みれば、それすら些細な指摘に過ぎない。名作「Nightclubbing」に次ぐクールなレコードと言っていいくらい、これはいいアルバムだ。
このアルバムはとても正直な作品だし、作者であるグレイス・ジョーンズという人物・キャラクターの本質にもっとも肉薄したレコードじゃないかと僕は思っている。その内実は、ポップ・スターというものが概して薄っぺらで短命な生き物であること、そして彼女の「元モデル」という皮相なキャリア~肩書きを考えればとても豊かだし、かつこの作品は2008年の今リリースされている数々のポップ・レコードの中でももっとも誠実かつ虚飾のないものと言える。過去へのノスタルジーを感じさせないこの作品は、アーティスト自身の年齢(グレイス・ジョーンズは今年で60歳)と精神面での成熟を反映させたレコードでもあるし、それだけでも聴き手の耳をそばだてるにふさわしい作品なんじゃないだろうか。
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